峠歩きシリーズ  万騎峠

期  日  2013年12月7日
参加者  CL椛澤 他4名

コースタイム;須賀尾の矢竹9:10−道しるべ9:15−旧道口10:20−車道合流10:45−万騎峠11:00〜11:45−矢竹13:15

今日は無風快晴の中、陽だまりハイキングを楽しんだ。

高崎市から旧倉渕村を通り、大戸の関所を左折、信州街道へ入り、草津街道との分岐点の広い路肩に車を停めた。
分岐点には万騎峠の指導標が立っているので解りやすい。
道路は舗装されているので歩き易い。
5分程歩くと「江戸時代の導標(みちしるべ)の看板があった。
どうやら此処が昔の道(旧道)の草津街道だった様である。しかも公道だったと書いてあった。
これから歩く左への道が信州街道、右は草津街道。
右への道を行くと何処に出るのか?探索したくなったが、ここは我慢して予定通り左の道を行く。
この様な感じ。
車の殆ど通らない(と言うか今日は2台だけ行合った)道はのんびり歩けて、また冬枯れの雑木林の明るい雰囲気の中を快適に歩く。
万騎峠の手前で車道は大きく迂回するが、地図を良く見ると破線が真っ直ぐ峠に向かって伸びているので、我々は迷わず後者を採った。
若干の踏み跡の残る、往時の信州街道が偲ばれた。
クマザサが腰のあたりまで有ったが、微かな踏み跡が足元に有るので、さほど歩きにくい感じは無かった。
歩き始めてすぐに、炭焼き窯が全く崩れづに残っていた。
一部、踏み跡の無い所もあったが、初めてヤブ漕ぎを経験したメンバーもたのしそうであった。
車道に合流、右に行く。
大きく左カーブした先に突然万騎峠は有った。
いわく
万騎峠 (長野原町・吾妻町)
 吾妻郡吾妻町と長野原町の町境にある峠、菅峰南方1.2Kmほどの尾根上にあり、標高1281m。かっては信州街道の須賀尾宿(吾妻町)と狩宿宿(長野原町)の中間に位置し、草津への湯治客、善光寺参りなどの旅人のほか、北信州の飯山・須坂・松代藩の江戸出し城米をはじめ、信州の特産物であるソバ・大豆・小豆の輸送、白根山や万座山から幕府の火薬製造原料となった硫黄の搬出などで人馬の往来も多かったが、明治26年信越本線の開通によりさびれ、今は訪れる人もほとんどいない。頂上にはブナの古木があり、旅人の目印になったと言う。
                                  (歴史の道調査報告書/信州街道)
 ここからの展望は素晴らしく、東は榛名山、西は白根山・四阿山から鳥居峠まで一望出来る。この万騎峠の名は、「曽我物語」にも記録のある建久4年(1193)の源頼朝の三原・那須の狩りの際、狩宿のの地に宿泊ののち。頼朝が万騎の兵を従えて峰を越えたことに由来する。
 また別名を万字峠とも言われ、前記狩の峠越えのときに、山中の狐や狸が勢子に化けて行列にはいって邪魔をするので、人笠に卍の印をつけて越したことから卍(まんじ)峠いったのが、いつのまにか万字・万騎となってしまったという伝説がある。
万騎峠のしるし。
説明文にある大きなブナの樹。
幾多の人が眺めたであろうブナの巨木。幾多の人を見つめていたであろう巨木。
郷土の偉人、小栗上野介の夫人が身重の体で信州から新潟、福島へ逃げ伸びたのもこの峠を通った。
このまま枯れずにいて欲しい。

冬型の気圧配置の為、残念ながら浅間山や白根山方面は雪雲に覆われて一望とはいかなかった。
峠は冷たい風が吹きわたっていたので、早々に引きさがり、笹塒山と竜ヶ岳の見える陽だまりで楽しい弁当タイム。
帰途は車道を一直線、陽だまりハイクは終わった。
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