峠歩きシリーズ 萩生峠・須賀尾峠

期  日  2013年12月8日
参加者  CL椛澤 他3名

コースタイム;忠治とまどいの松8:30−萩生峠(1)8:40−忠治とまどいの松8:50〜分去の道標9:00〜浅間神社9:10−萩生峠(2)9:40−萩生峠(3)10:15−浅間神社10:35〜本宿道標11:00〜清水の道標11:15〜須賀尾峠11:40〜12:00〜大戸の道標13:10

みやま文庫の「群馬の峠」須田 茂著に依ると萩生峠は671m、倉淵村〜吾妻町萩生とある。
忠治とまどいの松と言うのが国道406号線の萩生峠の少し北方にあり、車を止める事ができたので、ここから萩生峠に向かって歩いた。

右はとまどいの松に有った説明文  
とまどいの松を少し高崎方面に戻ると右側に、今は営業していないレストラン風のお店があり、この店の看板に「萩生峠店」と有るので此処が萩生峠だと言う事が分かる。
実際の峠はもう少し高崎よりの標高が一番高いところ。
大沢峰の辺りが萩生峠
ちょうどこの辺りだろうか。
とまどいの松に戻って車に乗り、分去まで移動。
分去の道標は国道脇にあり、直ぐに分かった。今まで何回となく往来した国道406号線だが、この様に由緒あるものがここに有ったとは、全く気付かず通り過ぎていたのだ。

石には、右ハくさす、○○○やむらと有る。私の想像では、左はたやむら、ではないかと思った。たやむらとは田谷村では無いかと思う。実際に田谷の地名は現存する。
分去の道標
萩生の集落から大戸へは向かわず左折してもう一つの萩生峠へ向かった。
右側に浅間神社が有る前の車道が少し広くなっているところに路上駐車、此処から歩くことにした。
すると神社の前の住人で、小池さんと言う人がいたので、早速峠の情報を聞いた。
小池さんのお話では、小池さんが子供の頃は峠を越え、本宿の小中学校へ歩いて通ったそうだ。一里だったと言うから4kmくらいだろうか。そしてその道は、今車の通る県道では無く別の道があり、そちらが近道だと言う。
私は、その話を聞いてビックリ。もしかしたら本来の萩生峠がそれでは無いのか?と。
お話し好きの小池さん夫婦、干し柿が美味しそうに吊るして有ったので、ちょっと褒めたら、人数分の干し柿をくれたのだった。それはとても大きく掌に載せるとどっしり重かったし、乾燥具合が丁度良く美味しかった。
因みに小池さんの家は築200年くらいらしい。大事に済んでいてここの辺りでは旧家だと言う。
岩佐徹道著、「群馬の峠」や小栗上野介夫人の福島への脱出行に寄れば、萩生峠はこの浅間神社の前を通り本宿へ抜ける道が萩生峠としている。
小池さんのお話の昔の通学路は浅間神社の先、二つ目の道を右に曲がるのだそうだ。
我々は迷わず右に曲がった。
その道は畑の中を通っていた。
畑を過ぎると山道になった。
眼下に穏やかそうな山村風景が広がる、素敵な道だった。
そして峠に到着。
この掘割状の遺構は一朝一夕では出来ない、年月を感じさせた。
そして、矢張り此処が江戸時代は本来の峠道では無かったのか!と確信するのだった。
萩生峠(2) 記念にプレートを設置。

或る時は源頼朝が越え、また或る時は国定忠治がひそかに通り、また悲劇の主人公小栗上野介の奥方が、8か月の身重な身体で、長野、新潟、福島へと逃げ伸びた歴史の峠でもある訳である。
ロマンを感じ、ひと時を同じ空間で同じ空気を吸い込む私であった。

この峠名はあくまでも私の個人的な思い込みであるので、独断と偏見である事を此処に明記する。
そのまま峠を越えて行くと本宿への車道と合流。
車道を戻って萩生峠(3)に到着。
こちらの峠道は明らかに明治以降車を通す目的で新たに開鑿されたと思う感じで、切り通しの峠や坂道のカーブで有り、人が歩く峠道とは明らかに違うと直感。

先ほどの萩生峠(2)は地図上でも遠回りしていないにも係わらず、牛馬が通れる道でもあり効率的だった。
峠を萩生に向かって帰って行く道すがら、暖かい日差しが眩しかった。
一回りして浅間神社に帰着。
ここで車に乗って移動する。
本宿で国道406号線と合流するその角にあった道標は小さいので、注意して見ないと見逃しそうだ。
右、須賀尾道  左、萩生ヲ経て高崎と読める。
また車で移動、須賀尾の浅間隠温泉郷分岐。
その中央に道標が有る。
刻んである文字は判然としないが、須田 茂著「群馬の峠」によると
右 信州、くさず
左 鳩ノゆ
とあるらしい。
昨日歩いた万騎峠分岐を通り過ぎると、畑で農作業の人がいたので、また情報を聞いた。
  昨日「江戸時代の道しるべ」を見た時、右くさず道と刻まれた、その事を聞いて見た。
するとその人はこの道がそうだと言う。
確かにそこには、狭いが農道が道しるべの方向に延びていた。
   この二枚は昨日撮ったものである。
車で移動、須賀尾峠の手前に車は停めて、少し歩いた。
この峠は、菅峰やジョッキ、丸岩の登山で矢張り何度となく通っては居たが、ここが草津街道だとは知らなかった。
お地蔵様の頭が無かったが、最近どなたかが頭を載せたらしい。
お地蔵様が有るのに、地蔵峠では無い所が面白い。

須賀尾峠の謂れ
源頼朝は癩を病み常に白布で顔を包んでいたそうだ。その頼朝が浅間へ狩りに向かう途中、この村の湯で一夜を明かしたところ、その湯が大変良く効いたので、喜んだ彼は珍しく白布をといた素顔で村を発って行った。以来此処をスガオと呼ぶようになった。(岩佐徹道著、群馬の峠寄り抜粋)
(ここを大戸の宿に有る道しるべ
(ここをマウスでダブルクリックして、文章を入力してください。)
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